2015年05月06日

one day は「一日」とは限らない(ラッセル『教育論−特に幼児期における』の誤訳)

 誰でもうっかり誤訳してしまうことがありますが,英語の大家であっても,得意な主題分野と不得意な主題分野があり,必ずしも論理的思考が得意とはかぎらないので,その例外ではありません。
 バートランド・ラッセルの英語は,論理的な書き方をしているので,多くの人にとってわかりやすく,それだけ誤訳の危険はすくないだろうと思われますが,ラッセルの発想の特徴がわからないと,また幅広い教養がないと,うっかりして誤訳してしまいます。
 以下ご紹介するのはそのひとつですが,たとえ英語がそれほどできなくても,論理的な思考が得意であれば,これは誤訳ではないかと気づくことができる例です。
 すぐに長い英文がくると,読みたくないと思う方がいるといけないので、日本語の訳文と誤訳の指摘を先にあげ,英文はその後にします。英文を読みたくない人は読まなくてもけっこうですので,日本語のところだけでも読んでみてください。英文も読んでいただければもっと良いですが・・・。

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 ラッセル『教育論−特に幼児期における』第10章「他の子供たちの重要性」の誤訳について
 http://russell-j.com/beginner/OE10-060.HTM ← こちらに見やすいものがあります。

・・・前略・・・。もちろん,ジョン・スチュアート・ミルが育てられたような,3歳でギリシア語の学習をはじめ,普通の子供らしい楽しみは何も知らない,というふうなやり方で育てることは可能である。単に知識を身につけるという観点だけからすればその結果はよいかもしれないが,全体的見地から見れば,私はその結果を賞賛することはできない。ミルが『自伝』の中で語っているところによると。彼は思春期に,あらゆる音符の組み合せはいつの日にか(いつか必ず)使い果たされ,そうして新しい作曲は不可能となるだろう,と考えて,自殺しかけたことがあった,とのことである。(訳注:安藤訳も,魚津訳も,堀訳も全て「あらゆる音符の組み合わせは一日で使い果たすことができるので,新しい作曲が不可能になると考えて,自殺しかけたことがあった」と訳されている。「あらゆる音符の組み合わせが一日で使い果たすことができる」なんてことは,常識的に考えてありえないことであることから,誤訳だと思わなかったのだろうか? また can be used up ではなく would be used up と書かれていることにも注意が必要だろう。結論を言うと one dey は前置詞がついていないことから,副詞的用法であり「いつの日にか(いつか必ず)」ということであり,論理学者でもあったミルらしく,音符の組み合わせは膨大かもしれないが,その組み合わせは'有限'なものであるから,いずれ新しい曲など作れなくなってしまうという「強迫観念」にかかってしまった,というのが正解であろう。私のこの解釈を補強するよい説明がweb上にないかと,Googleで検索したところ、日米ハーフの Jun Seenesac 氏の「one day と someday の違いと使い分け」という文章があった。「英語学習コラム」の記事のひとつですが,お勧めです。)この種の強迫観念が神経衰弱の症状であることは,明らかである。後年彼は,父親の哲学が間違っていたかもしれないということをあきらかにしそうな論拠を思いつくたびに,まるでおびえた馬のように後ずさりし(shied away from / shay の過去形),それによって,彼の推論能力の価値を大いに減少させてしまった。もっと普通の青年時代を過ごしていれば,おそらく,もっと柔軟な知性の持ち主になっていたであろうし,彼の思索ももっと独創的なものになっていたことであろう。それはともかくとして,もっと人生を楽しむ能力を身につけただろうことは確かであろう。私自身も,16歳までは − ミルの場合よりはいくらかひどいものではなかったが− 個人教育によって育てられた 。しかし,それでも,若者の普通の喜びに欠けるところが非常に多かった。ミルが言っているのとまったく同様に,私も思春期に自殺したいという気持ちにかられた経験がある。私の場合は,力学の法則が私の身体の運動を規制しており,意志は単なる幻影にすぎない(自分にはまったく自由意志はない),と考えたからであった。同年輩の友達と付きあうようになってから,私は,自分が堅苦しい気取り屋であることがわかった。その後いつまでそうであったかは,私の言うべきことではない(注:なぜなら、この本を出した1926年でも,他人はラッセルのことを「堅苦しい奴だ」と思うかもしれないから。ラッセルらしい物の言い方。因みに,魚津氏は「その後いつまでそうであったか,私は知らない」と訳されている)
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(原文)
It is, of course, possible to bring up a child as John Stuart Mill was brought up, to begin Greek at the age of three, and never know any ordinary childish fun. From the mere standpoint of acquiring knowledge the results may be good, but taken all round I cannot admire them. Mill relates in his Autobiographhy that during adolescence he nearly committed suicide from the thought that all combinations of musical notes would one day be used up, and then new musical composition would become impossible. It is obvious that an obsession of this sort is a symptom of nervous exhaustion. In later life, whenever he came upon an argument tending to show that his father's philosophy might have been mistaken, he shied away from it like a frightened horse, thereby greatly diminishing the value of his reasoning powers. It seems probable that a more normal youth would have given him more intellectual resilience, and enabled him to be more original in his thinking. However that may be, it would certainly have given him more capacity for enjoying life. I was myself the product of a solitary education up to the age of sixteen--somewhat less fierce than Mill's, but still too destitute of the ordinary joys of youth. I experienced in adolescence just the same tendency to suicide as Mill describes--in my case, because I thought the laws of dynamics regulated the movements of my body, making the will a mere delusion. When I began to associate with contemporaries I found myself an angular prig. How far I have remained so it is not for me to say.
 
posted by russellian-j2 at 16:01| Comment(0) | 誤訳(英語)